誰でもこうしたら上手になれる、という誰にも理解できる法則は未だにフルートの演奏には発見されていないのでしょうね。
それとも、言語によって体系化がされていないだけなのでしょうか。
わかる人にはわかるソノリテもビギナーには難しいし、目的意識を持たないロングトーンやスケール練習は時間の無駄だし、、、。
いろんな本を読み、そしていろんな人の意見を聴きながら、あれこれ試行錯誤してきたわけです。
おけいこ事は、習うより慣れろなのか。
師匠を真似て、型に入って型から出よなのか。
人は言葉によってしか思考できないのだし、言葉による説明が十分できない事をどう理解したらいいのか。
それでもうまくできる人がいるのはどういうことなのだろうか。
クチビルを締めずに、高音域で息のスピードを上げてpで吹くとはどういうことなのか?
いくら想像しようとしても、そんなことできるとは思えない。
では、自分はどうやって高音域をpで吹いているのか。
やはりアパチャを小さくしているとしか思えない。
で、それはクチビルを締めることとは違うのだろうか?
締めずに小さくする、そういうこともありえるかもしれないが、それでは小さくせずに締めるということはあるのだろうか?
音楽とはそもそも観念的なことを表現したりする。
豊かに!でも大きくなってはいけない。だとか、激しく!でも小さな音で、だとかいうニュアンスは観念的なわけだ。
様々な情報は鵜呑みにするのではなく、自分で考えることの参考にするということでしょうね。
しかしどうも、考える程に、考える自分があるから世界の存在に意味があるとしか思えない。
するってーと、自分があってこその世界なわけで、突き詰めると、自分こそ神なのではないかと思えて来る。そしてあらゆる存在は一つのものの枝葉なのではないか。
そしてそういう想像は生とか死とかを超越して、無限小と無限大がループする世界がいよいよ言語を超えて直感的なものになってくる。
12-14歳の頃は、毎日そんなことばかり考えていました。
友人と朝までそんなことを語り明かしたりしたものです。
あれからずいぶん月日が経過しましたが、さっぱり進展していない。
音楽を通して宇宙を感じたい人がいるそうですが、言語的思索を超えて「感じる」という直感でしか認識はありえないということなのでしょうね。
今日もフルートはよく鳴ってくれました。(昨日ほどではないが)
吹き過ぎないように気をつける事。
モルダウは昨日よりだいぶ改善されましたが、少し休んでから吹くとまた元に戻っています。
やはり、モルダウは降りたい鴨。
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