2014年6月29日日曜日

私にとってのいい演奏

ムラマツの発表会に行ってきました。
例によって午前11時から夕方までの長丁場。

新宿と横浜の合同。

シロートの演奏会のいいところは、みんな緊張していて一生懸命。

アダルトビギナーだろうと、なんだろうと、とにかく一生懸命。

人が一生懸命に演奏している姿は美しい。

ですが、

アダルトビギナーはとかく音がイマイチ。

しょうがないよね。

それでも聴かせたいポイントをしっかり歌ってくれると聴いていて気持ちがいい。

でもね。

音がイマイチなのはしょうがないにしても、音価がズレるのはちょと聞き苦しい。

あ、そこ、そんなに伸ばしますか。

あ、その音、切り上げるの早すぎっしょ。

みたいな。

おそらく本人も人の演奏を聴けば同じように思うに違いない。

でも、実際に自分の演奏になると、わかっていても治せないんじゃないかな。

おいらがそうだもの。



それとね、

がんばって吹いていますよ。ほら観てね。もうめいっぱい息を吸って、それからこうやって、ああやって、、、。
という感じの演奏で素晴らしい人もいる一方で、すっと立って、何気なく構えて、実に楽に難曲を吹く方もいらっしゃいます。
そういう方のC.P.E.バッハの協奏曲や、モーツァルトD durやペルゴレージやライヒャルトは秀逸でした。

楽に構えて、特別なことをするまでもなく、実に奇麗に響く音を鮮やかに紡ぎだす能力ってどうやって手に入れたんだろうか。

私にとってのいい演奏は、

1、下手でも一生懸命であること。
2、伝えたい何かを感じさせる演奏。
3、難曲であることを感じさせずにさらっと見事に演奏すること。

かな。

私にもできそうなことは1、と2、だな。
3、はムリ。




10 件のコメント:

  1. 私も「上手い」「へた」という評価で音楽を聴かないです。
    いわゆる「上手い」のに楽しめない演奏もあるし、「いわゆる「へた」なのに(笑)存分に楽しむことがあります。面白いですね。

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    1. 不思議ですね。楽しめる演奏の要素って何なんでしょう。
      楽しむ側の渇きも重要なのかもしれません。

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  2. 上手かろうが、へたかろうが、確実にそこに出てしまうものを聴いているのかもしれません。
    そうそう、渇きによる効果は絶大ですね。空腹と食事の関係に似ているかも。^^
    そう考えると、ただ演奏が「乱れが無く正確である」的な音楽は世の中にあふれていて、その方向ではみんなお腹いっぱいですから、何に「空腹」なのか?を考えてお料理(プログラム、選曲)を出すべきか?は、考えないといかんのではないでしょうかね?

    「グラン・ポロネーズ」「ミニヨンの主題による~」「カルメン・ファンタジー」「魔弾の射手の~」「プーランクのソナタ」「プロコフィエフのソナタ」「ライネッケのソナタ」「しぼめる花の~」「アルぺジョーネ・ソナタ」・・・・・などが並んでいるのは・・・・・。私なら誰が演奏していようが、そういうコンサートには行かないなぁ・・・。

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    1. 上手な人がテクニックを披露する定番って曲ですかね。
      吹く方も聴く方も好んで疲れるこたあないわな(笑)。

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  3. 音楽ではなくテクニックが聞えてくる演奏なんて、空腹の豚さんだって食べないですよ。

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    1. 「テクニック」の本来のあり方は、より音楽的に演奏することのはずなのに、何故か音楽の邪魔をするだなんて皮肉ですね。

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  4. ヴァイオリンやチェロが同じことをして「どうだ!」なんて言うような事かどうか?
    ですよ。
    せっかく20世紀にタッファネル、ゴーベール、モイーズ等が、他の楽器と同じような次元にフルート音楽を引き上げたのに、いまや、とってもお粗末な状況ではないでしょうか・・・・。

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    1. そういうことですか。。。
      「テクニック」の方向性が本来の音楽から離れていってしまったのですね。
      日本の専門の教育機関が音楽家を育てない仕組みになっていると聴いたことがあります。
      笛人口は多いのに残念ですね。

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  5. 日本の音楽教育は大勢の子供らの中から、天才の出現を待っている感がありますね。それが運良く出現すると、教育の力だと.....。

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    1. なるほど。

      そりゃ、都合がいい!!

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